2012年5月9日水曜日

速報 カーペット交換

2012年5月8日、10年使われてきた教会堂のカーペットが新しくなりました。その工事が今日、朝10時から職人二人によってなされました。その工事の工程を簡単に説明していきます。                  全体を見ると、糸のほぐれている部分が数か所に見えます。これは、カーペットが継ぎ接ぎであることを意味しています。少しづつ部屋を広げて来たために、カーペットがこのように継ぎ接ぎになってしまった訳です。
  • 傷んだカーペット
つなぎ目のほぐれ
台所の糸のほぐれ
これらのカーペットは、つなぎ目から糸がほぐれて傷になっている箇所です。カーペットはつなぎ目をきちんとしておかないと、そこから掃除機に絡んだりして糸がほぐれてしまいます。


アイロンで焼いた痕
飲み物をこぼして出来たシミ
ここに見るカーペットは、飲み物のシミやアイロンの焼け跡がくっきりと写っています。これらは、もう洗っても取れません。




  • 古いカーペットを剥ぐ
糊付けされていたカーペットですが、長い時間の中で糊もはがれてきており、はがす作業は10分くらいで完了しました。





  • 床を平らにする
問題は、これからです。床が長い時間のなかで水などを含んでいたの部分が腐りして、ぼろぼろになっています。また、廊下の部分は、したがタイルで、つなぎ目の隙間があって、隙間があれば糊がカーペットにきちんと付着しませんので、後になって外れる恐れがあります。

 ここにあるのは、その例です。板が腐って、土のようになっているのが分かると思います。これは、このままではカーペットを敷くことが出来ません。そこでどうするかというと、こうした部分をきれいにして、その上からクイックセメントを塗り平らにする作業をします。
 
この2枚は、左がタイルの部分でつなぎ目の隙間が見えると思います。右側は、その上にクイックセメントを塗って溝を埋めたところです。ここまでで午前中は工事の終了です。あとは、乾くのを待たなければなりません。

  • 新しいカーペットの糊付け
新しいカーペットを糊付けにする訳ですが、問題は、カーペットを横向きにつなぎ合わせるか、あるいは縦につなぎ合わせるかです。前回のは、どちらかというと横にして繋ぎ合わせてありました。しかし、今回は、縦にしてもらいました。それにより公団から入口までつなぎ目なしの一枚カーペットになるので、これまで以上にほぐれにくくなります。つなぎ目は真ん中より少し台所寄りに一本あるだけです。これであれば、今までのように簡単にほぐれることはないでしょう。

左側が講壇からまっすぐ伸びているカーペットの様子です。右側は、その長い大きなカーペットの二枚のつなぎ目です。長さの関係で、壁側にもう一枚つなぎ合わせてあります。



 これらをサイズに合わせて裁断し、それぞれの場所に設置します。それから、一枚一枚外して、内側にヘラで糊を付けます。その後は、ニーキッカーで端っこを壁に向けて延ばしながら、壁側の部分を長さに合わせて切りとっていきます。そして、きれいに整えれば完成です。




  • 完成
カーペットは、つなぎ目のところを小さな鋏で上に飛び出ている部分を丁寧に切りとり、つなぎ目がわからないようにします。これをきちんとしないと、飛び出た糸に掃除機などが絡まって、糸がほぐれる原因になります。
その後は、カーペットを切った端切れを集め、掃除機をかければ、それで仕事は終了です。
今回は、ピアノが大きな問題でしたが、縦敷きにしたので、動かす距離はほんの一メートルで済み、特に人手を必要としませんでした。職人二人だけでピアノも移動しました。その分の費用は、床の修理(クイックセメントを塗って平らにするのは別請求)に当てることになりました。





賛美する子供たち

孤児院を発つ前夜、子供たちがテントの中に集まってきました。最後の夜ということもあって、別れるのを惜しんでか、就寝時間になっても自分たちの部屋に戻ろうとしません。
子供たちは、「賛美しますか」と尋ねられると、みんな声を合わせて、大きな声で「ハイ」と答えていました。そこで子供たちと一緒に賛美をすることになったのですが、みんな元気に大きな声で賛美していました。賛美を通して、心からの喜びを表現しているのがよく分かりました。その気持ちが響いてくるのを感じました。



彼らが、わたしたちのしている曲全部を知っている訳ではありません。しかし、ちょっと聞くだけで直ぐに歌えるようになるのです。天使の歌声のように、とは言いません。でも、喜びを精一杯表現しているといった感じでしょうか。6歳の子から17歳の大きなお兄さんまでもがみんな一緒になって時間を忘れたかのように大きな声で、体を揺さぶりながら賛美しました。

しばらく賛美を歌った後、今度はアメリカから子供たちと勉強するために持って来た聖書の貼り絵をみんなにあげました。すると、大きい子も小さい子も、必死になって取り組んでいました。
わたしたちにとっては、物珍しいものではないかもしれません。でも、この子供たちには嬉しい神様からのプレゼントなのです。それをもらってみんな大喜びです。そんな喜ぶ子供たちの姿を見ているとこちらも嬉しくなってきます。

アメリカのクリスチャンの人たちが自分たちに持ってきてくれたこの貼り絵を通して、彼らは神様の愛に触れました。同じクリスチャンのお兄さんお姉さんたちから嬉しい贈物をもらったこの子供たちは、自分たちが大きくなってもこの日のことを忘れないでしょう。そしてこうした思い出を通して、彼らが大人となった時に出会う次の世代の子供たちにも同じように愛を注いでくれるのではないでしょうか。


だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
                                             コロサイ3章12-14節

孤児院への贈呈品

今回、アメリカから孤児院へ必要な品物を贈呈することとなり、この日は、その授与式(略式)を行うことになってなりました。
わたしたちが、孤児院へ到着した時、ちょうど注文してあった冷蔵庫と洗濯機が到着、部屋の中に運ばれているところでした。
今回、贈呈された物には、ここにある品物の他に井戸を掘るための資金、それに専用の台所を建てるための資金、また、建物の修復のための資金などが、BGCTから出資して頂きました。
これらに加え、下にある品物が、個人の寄付なども含めて購入され、贈呈されることになりました。冷蔵庫と洗濯機は、これまでなかったので、大変に喜ばれました。ほかにも、井戸の水を汲むためのポンプや子供たちが夜外を歩く時などに使うLEDの充電式スタンド、また、音楽をする時のギターなど、様々です。



 そして、子供たち一人一人のために英語の聖書とブランケット、それにバケツを準備しました。これらは、ひとりひとりの所持品になります。子供たちは、普段から英語を学び、英語の讃美歌を歌っています。ですから、わたしたちも子供たちとは英語で会話をすることができます。大人の人たちは、十分英語が話せない人もたくさんいますが、子供たちとは英語で不自由しません。


中には、なんでバケツを、と言われる人がいるのではないでしょうか。しかし、このバケツが非常に重要な生活必需品なのです。これで井戸から汲んだ水を運ぶことができます。この水で顔を洗うこともできます。また、お手洗いに行くにもこのバケツを必要とします。生活のあらゆる分野で彼らには大切なものなのです。みんな喜んで受け取っていきました。


父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。  ヤコブ1章27節

山奥にあるクリスチャンの町


ホテルのあるインパルという町から、再び車に乗って、孤児院へ向かう道を走り始めました。途中の道には、毎朝見る当然の景色の一つであるかのように人々が日向ぼっこをしていました。
ちょうど、買い物に立ち寄ったお店の前にもそんな男性たちがいました。早速、座っている彼らに写真を撮らせてもらえるか尋ねると、 彼らは、快く応じてくれましたので一枚撮らせて頂きました。

途中の道には大きな荷物を積んだトラックがゆっくりと走っていました。その後ろに人が一人いたのですが、彼がトラックの荷を抑えるためにいた人なのか、あるいはたまたまそのトラックの後ろにぶら下がって、どこかへいこうとしていたのかは、わかりませんでした。また、道には、制服を着た子供たちが学校へと出かけるところだったのでしょう、集まっていました。
長閑な風景が続く中、小さな車に揺られながら、わたしたちは孤児院のある町の方向へ向かっていました。ただ、今回は、そこから更に奥地へと進んでいくことになっています。


途中のガソリンスタンドに寄ると、そこには消化砂が備え付けられていました。アメリカや日本なら、油に強い何かそれなりのケミカルを使用した消火器を準備するのでしょうが、ここでは、バケツの中に砂が入ってぶら下がっているだけです。その上にFIREと大きく書かれていました。しかし、出火した時、これだけの砂でどれほどの効果があるのだろうかと思いました。それこそ、想定外だったと言わなければならないのではないでしょうか。


孤児院から幹線道路を外れて山道をさらに奥地に入っていきました。山道には、たくさんの小さな村落が散在しています。しかし、山道は道路の整備がきちんとされておらず、四駆車でないと、なかなかスムーズに走ることが出来ません。その途中の町について尋ねると、村落によっては100%ヒンズーの村があれば、100%クリスチャンの村もあるとのことでした。これがこの地方の現実であり、途中、クリスチャンの学校も目につきました。
 わたしたちは、孤児院から道を外れて大体1時間半くらい車に揺られて山の中へと進んでいったのではないでしょうか。すると、目の前に小さな盆地のような土地に町が姿を現しました。
この町の中に一軒の家があり、そこから一人の姉妹がわたしたちが滞在している間、町に泊り掛けで、面倒を見てくれました。今回は、その方の家を訪問することにしたのです。

 家には、その方のお兄さんご夫婦とお母さんが同居しているということでした。ただ、この家も一階部分はできていましたが、二階は、まだ枠組みだけで、お金ができるの待っているそうです。



 家の入口には、ヨハネ3章16節の言葉が張られていました。イスラエルの家の入口に聖句を入れた箱があるように、紙の端っこが破れて来てはいますが、彼らの家の柱には、そこに来る誰の目にも止まるように聖句が張られているのです。この家を訪れる人は、誰もがこの聖句を読むことでしょう。これも彼らの伝道の方法の一つではないかと関心させられました。
この家には、おばあさんがいますが、その方には祈りのパートナーがいます。二人は、いつも祈りを共にし、また、互いのために祈りを持って支え合っています。今回、わたしたちが訪問した時に、ちょうどその祈りのパートナーであるもう一人の婦人が訪れて来られたので、お二人の信仰に生きる者の幸せな顔を写真に撮らせて頂きました。何とも言えない二人の笑顔に心が洗われるような思いがしました。
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。          エペソ6章18節